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がとまらない。先週末は1ドル=153円台にまで急降下。「まさか」の1ドル=200円という専門家の声まで出てきた。円が200円を上回っていたのは「プラザ合意」のあった1985年にまでさかのぼる。海外製品は「舶来品」と呼ばれ、庶民には高根の花の時代。日本人がそこそこ貧しく、そこそこ豊かになった頃だ。

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■プラザ合意前は1ドル240円前後

1985年は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の舞台となった年。カリフォルニア州ヒルバレー(架空の都市)の繁華街には空き家が目立ち、時計台の修繕にもカンパを募るほど。アメリカ全体が相当さびれていた様子が描かれている。

この年、米国は「双子の赤字」と呼ばれる財政赤字と貿易赤字でニッチもサッチもいかず、日本に泣きついて為替の円高・ドル安を誘導。いわゆる、同年9月のプラザ合意のことだ。

ちなみに、中曽根首相(当時)が「1人100ドル分の舶来品を買ってほしい」と訴えて自身は米国製のネクタイを購入してみせたが、当時の米国製は「安かろう悪かろう」の代表で国民は見向きもしなかった。

合意後、為替レートは1ドル=240円前後から翌86年には約168円(年平均レート)に急上昇。思惑通りに日本の輸出は減少したが、円が高くなった分、輸入額はそれ以上に減少。貿易黒字は余計に拡大してしまった。やがて日本では金余りが起き、海外を買いあさったり、パリのエルメス本店でスカーフを爆買いする女子大生やOLが現れている。

話を戻すと、仮に1ドルが200円を上回ったら、それは1985年のプラザ合意前まで戻ることになる。では、その1985年の雰囲気はどんな感じだったろうか?


業績も円高の直撃を受けた。1986年6月期には国内販売の健闘により売上高こそ前期比4.0%の増収となったものの、円高による減益要因は2,900億円にのぼり、営業利益は34.9%減の3,293億円、経常利益は24.6%減の4,883億円と、前期の過去最高益から一転して大幅な減益となった。1982年の工販合併による新生トヨタの発足後、初の減益決算であった。とくに円高が始まった下半期の営業利益は前年同期に比べて6割強も落ち込み、為替変動の業績への影響はかつてないレベルに高まっていた。

それまで1ドル240円前後で推移していた円相場は、1985年末には200円を切る水準となり、翌1986年5月には160円に高騰した。この急激な円高で日本車は米国向けを中心に数次にわたる値上げを余儀なくされ、競争力は総じて低下していったが、トヨタも例外ではなく、1986年の全世界向け輸出台数は前年を5.3%下回る187万台に減少し、200万台を目前に急ブレーキがかかった。

1985/10, 211.8, 214.84, ND, ND, ND, ND

平成元年から平成31年の現在までで、最も印象に残っている出来事、振り返ってみて驚く変化は何でしょうか?平成が終わる2019年4月末まで残りわずか。平成を振り返り、新時代を迎える準備をしてみてはいかがでしょうか。

1986(昭和61)年1月、トヨタの国内累計生産台数は日本メーカーでは初の5,000万台に達した。しかし、祝賀ムードに浸ることを許さないほど日本経済は激動期を迎えていた。1985年9月にニューヨークで開かれた先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)で、ドル高是正のための為替協調介入を決めた「プラザ合意」が成立し、急激な円高ドル安が進行していたのであった

円安が止まりません。物価も高騰しています。でも1ドル=155円前後(2024年5月現在)という現在の円は、歴史的に見るとどうなのでしょうか。為替レートが一気に円高に動いたきっかけは「プラザ合意」。当時のレート…

当時の記憶を呼び起こしてみます。1985年のプラザ合意後に進んだ急激な円高のインパクトは、一般庶民の肌感覚としてもとても大きいものだったと記憶しています。それまでは1ドル250円程度だった円相場が120円台まで高騰し、160円台に戻した


1985年9月22日、過度なドル高の是正のために米国の呼びかけで、米国ニューヨーク ..

円高は輸出企業の業績悪化を招き、経済の落ち込みにつながるとして、企業や世間の不評を買った。こうした状態に対応しようと、政府とは財政出動と金融緩和を強めた。80年代末ごろから円安に転じ、90年4月に160円まで戻した。その後、バブルが崩壊。海外の資産を国内に引き揚げる動きなどから円高方向に進んでいった。