Gotchが自費で発行している新聞のことです。※めちゃめちゃお金かかるらしい


「ロック」みたいな話題の難しさは、それについて真面目に論じること自体が既に笑いの対象になってしまっているところにあると思う。実際、マジメなロック論は「力説」だとか「ご高説」みたいな言い方で盛大に嘲笑されている。気の毒だとは思うが、もう何を言っても無駄だと思う。


ここ最近の楽曲では最も「アジカンらしい」曲なのではないかと思います。こういう曲、実は作るのが一番難しいんです。例えば、「リライト」や「ソラニン」という曲が僕らの一般的なイメージとして定着しているのも分かるし、その良さも理解しているのですが、これを自分たちで意識的に利用するのは自分の中のルールに反するんですね。再生産のようになってしまうと、僕らがやりたいのは新しい何か(例えば、フィーリング)の創造ですから、なんとも違和感がある。言うなら「リライト2」は作りたくないわけです。皆の思う「アジカンらしさ」につながるとしても、自分たちにとっての「新しさ」がないと納得ができないのです。そういう意味では、「アジカンらしさ」に挑戦しながら、新しさにも手が届いた曲なのではないかと思っています。

自由でありたいとか、平和に暮らしたいといった当たり前なメッセージが、政治的に響いてしまう時代が、すくそこまで来ているのだとしたら、多少とも脳味噌に重さのある人間が音楽に政治を持ち込まなことは、ほとんど不可能だぞ。

「フジロックに政治を持ち込むな」に、アジカンの後藤正文さんら反論

作曲は山ちゃんのリフを元にセッションで作りました。イントロのリフがギターで指定されていたのですが、ベースイントロに変更して、なるべくこのリフを手をかえ品を変えいろいろなところに登場させていくアレンジにしました。アジアっぽい音階ですよね。そのあたり、山ちゃんが「アジカンらしさ」を意識しての旋律なんだと思います。そうなの?とは聞いていないですけど、絶対そう。笑。

どーも、「のウソ」という本を買おうと思って本屋に行ったら在庫切れだった管理人のJYUNです。でも在庫がないらしい。

コラムニストの小田島隆さんは19日、「あらゆる人間の営為を包摂する芸術である音楽から、特定の要素だけを排除できると考えている点でアタマがおかしい」などとして、「多少とも脳味噌に重さのある人間が音楽に政治を持ち込まなことは、ほとんど不可能だ」などとコメントした。

Gotchの政治的発言について結構批判的な意見が多いので、少し僕から言わせてもらいます。


思想がムリすぎて残念。ライブも行きたくない 昔聴いていたアジカンはもういない ..

(´-`).。oO(SEALDsがフジロックに出るのが気に入らないからって と騒ぐ人は幼稚だ。羨ましいなら自分も何か行動すればいい。できないのにできる人の足を引っ張るのは卑怯だ。

このように後藤自身は革新寄りの政治思想を前面に出すことを厭わない。 ..

それをさらにエスカレートさせたようなブリッジ(「緩慢な輪になって」あたりのブロック)を作ってしまうのは、もうなんつうか、性癖のようなものです。よくよく考えてみればリライトと構成がほとんど同じなのです。ヴァース(Aメロ)とコーラス(サビ)をなるべく少ないアイデアで押し切ってしまうのが最近の自分たちの理想形なんですけれど、こういう曲はもうひとひねり欲しくなるんですね。そうすると、もう、あそこの場所しかなくなってしまうんです。笑。「もうちょい考えろや」っていう意見もあるかもですが、セッションで作ってるっていうのがミソで、これ、バンドとしての快楽のツボなんです。4人でやると、どうしてもここで緩急の緩の部分が欲しくなる。そういう意味でも、繰り返しますが、性癖です。笑。

アジカン / 原発について考えていた2011年 / 「砂の上」 / こんな時に曲を ..

17年に小説「YOROZU~妄想の民俗史~」を書いたときに、その読書用CDとして初めてアンビエント作品をリリースしました。それを坂本さんがどこかで聴いてくださったようでした。坂本さんは自分のラジオ番組でもこのCDをかけ、「こういう音楽なら一緒にできそうだね」という話をしてくださいました。

政治思想とか政治活動の中での行動言動について物申すならわかるけど、その人自身を死ねとか言うのは違うよねただの悪質な悪口でしかない

「透明」なものとは何か。自称、または通俗的に「聡明」とされているヤツらとは誰か。「亡霊」や「幽霊」のようなもの(イメージや考え方かもね)とは何か。例えば歌詞中の「東名」での出来事は比喩ですが、「何もないような歩道」のような場所で「興味ない」とか、関係ないとは言っていられないこととは何か。また、「興味ない」と言っているのは誰なのか。

フジロック、炎上中アーティストが「ガースーやめてよ」政府批判? アジカン後藤とTOSHI-LOWの“替え歌”が物議 · 政治・社会

ブリッジの「緩慢な輪になって」からのブロッグは映画/コミックのNARUTOの世界感に直結している部分でもありますが、「異端者」を探して叩く風潮は社会全体に蔓延していますよね。「他」に対してとても厳しい空気が社会を満たしています。「体罰」にせよ、「不祥事」にせよ、「いじめ」にせよ、その実際の背景や事情は現場の人しか知らないのに、そういった単純な見出しのもとにイメージを集約して、とりあえず皆で悪者を探しが始まります。それも「ON/OFF」とか、「賛成/反対」とか、答えがふたつしかないやり方なんですね。世の中って、もっと複雑なのに...。それはマスメディアだけではなくて、ネット上のコメント欄やSNSで、他ならぬ一般市民がこぞってやっているわけです。監視し合っているようにも感じます。

モナニュースさん:2024/11/14(木) 01:00:00 ID:mona-news「完全に気分は顧問」静岡県出身の#アジカン ..

電力会社は日本で10社あるんですけど、独占でしょ。だから、小さな発電者がたくさんできることは面白くないんですよ、独占を犯されることに対して。を完全に否定する側に入ってしまうんですよ。“が一番安い”と言われていますが、実際は安くないんですよ。要するに、“は高いんですよ”と、偽ってお役人や業者が値段を出しているんです。それで一般の人に、“はとても高くて採算が合わないんです。これを採用すれば、みなさんに負担がかかるんですよ”と、言い続けてきたんです

もう政治なんて学ばない方が平和なんやないか? これだけネットで政治拗らせてる奴が嫌な人間ばかりやと本気でそう思ってしまうわ.

フジロックで、政治を持ち込むな、というニュースを見たけど、政治的な主張を含む音楽はかつてもあったし、今後もあるだろうから、自由でいいんじゃない? 結局、残るのは、楽曲としてすぐれたもの、人の心を打つもの。政治は、音楽の前では、恋と同じ、題材の一つにすぎない。いい音楽かどうかは別。

最悪のニュースに動揺してほとんど動けずにいました。ここに言葉を綴るかどうかについても逡巡しました。こんなことは許せない。


そしたら尚更のことアジカンである必要性がなくなるやん
アジカンの曲の何がええんや?旋律か?
旋律だったら尚更のこと、洋楽のほうが充実感を得られると思うで

書籍『朝からロック』を上梓した後藤正文へのロングインタビュー後編をお届けする。(前編はこちら)

そりゃ安いですよ。特に私がやっているバイオガスというのは、原料は廃棄物なんですよ。廃棄物っていうのは、処理するときにお金がもらえるんですよ。普通は石油を買って発電するじゃないですか? ところが、我々の場合は逆にお金をもらえるわけです。生ゴミでも家畜糞尿でも処分するのに困るものを、1トン1万円くらいで引き取って、それを使って発電するんです。

君繋ファイブエム : ASIAN KUNG-FU GENERATION

ロックバンド「アジアン・カンフー・ジェネレーション」のボーカル・ギターで、「Gotch(ゴッチ)」としてソロ活動もしてきた後藤正文さんが今年、(持続音)やアンビエント(環境音楽)に分類される音楽のアルバムを発表した。活動などに共に取り組んだ故さんへの「近況報告」として制作したという。歌詞もメロディーもない楽曲を坂本さんに届けようと考えたわけや、音楽と言葉をめぐって考えていることを尋ねた。

ASIAN KUNG-FU GENERATION | アジカン,アジカン | 国内盤 | CD ..

どうして、こういう儲かるシステムをみんなが知らないんだろうと。国民一般の認識が非常に低いことを感じて、これはか何かで啓蒙活動をしなければいけないと思ったんです。それで5年前から、『推進協会』っていうのを、何人かの友人でスタートさせたんです。ところが、我々は小さい団体だし声がなかなか届かない。5年前は今よりももっと国民の意識もそちらに向いてなかったですから。“”って言葉すら、行き届いてなかったんですから。“”っていうのは、国際的な概念なんですね。日本では“ソフトエネルギー”とか、“新エネルギー”とか、いろいろと言い方はあるんですが、定義をしないと物事が進まないので、それでヨーロッパでは何回も繰り返し使える、再生が可能だということで、“”となったんです。“renewable energy”というんですけど、これが共通の用語になっているんです。日本はなかなか政府が使わせようとしなかったです。“renewable energy”を訳せば、“新エネルギー”にはならないですから。“renewable energy”ってことは、水力にしても風力しろ太陽光にしろ、私から言わせれば“新エネルギー”ではなくて“旧エネルギー”なんです

アジカン後藤正文さん、ソロ新作は故坂本龍一さんへの「近況報告」

歌詞「だけ」を抜き出して注目されることには、ちょっとした違和感もあるけれど、「何のこといってるんだろう」という場所が入口になっている曲が多いので、僕の歌詞は。それが良いか悪いかっていう反省はいつもしますけれど、どうしても、聴き手にも一歩だけこちらに寄って欲しい。そうすると意味やイメージが広がるように書いているというか、俺はそういう書き方が好きなんです。傲慢なのかもしれないけれど。逆に、演奏者や作者の力だけで成り立つポップミュージックってないように思うんです。いつでも、聴き手/リスナーが発見と解釈をするからこそ、良い音楽は残ってきたのだと思うんですね。ビートルズは凄いけれど、それを「良い!」と言って見つけてきたひとも凄いですよ。一方で、やっぱり脳に直接電線を突っ込んで記号としての良さというか、化学物質というか、「分かりやすくて良かったです」が感想の一行目にくるというか、そういう消費型の社会の中に俺らはいるわけで、そういう単純な回路を拒みたい、というような気持ちも、歌詞の難解さにつながっているとは思いますけれど。言った側から分かられたら怖いというか。分からなそうだから、皮肉めいたこと歌いたくなっているわけで。笑。なんか倒錯してる部分もありますね、俺。LOVEとHATEがこんがらがってます、率直に。