「ARABAKI」出演者第1弾にアジカン、ザ・クロマニヨンズ、The Birthday、スカパラ、ヤバTら36組


前述した通り、意味が掴めそうと思った途端、スルっと手から抜け落ちていくような抽象的な歌詞が特徴で、「ソラニン」を除く全ての楽曲の作詞は彼が担当しています。


静岡県出身で関東学院大学経済学部を卒業後、小さな出版社で勤務していた経験があります。

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アジカンにおけるドラムを担当するのは伊地知潔(いぢちきよし)。

しかし、デビューに向けて本気で活動することを決め、アジカンのメンバーとして歩みを進めました。

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アジカンにおいては作曲に関わることも多い主力メンバーである一方、ギターを弾きながらよだれを垂らすなど天然な一面もあるようです。

◎リリース情報
EP『サーフ ブンガク カマクラ(半カートン)』
2023/6/14 DIGITAL RELEASE

アルバム『サーフ ブンガク カマクラ(完全版)』
2023/7/5 RELEASE
<初回盤(CD+サーフ ブンガク カマクラお散歩マップ&楽曲解説)>
KSCL-3450/3451 3,600円(tax in.)
<通常盤(CD)>
KSCL-3452 3,300円(tax in.)


初心者ドのボーカルやギタリストが気軽に、「やろうぜ!」とか言い出すと修羅。

後藤は「自身のルーツ」として、の「」をあげており、「この曲を聴いてなかったら自分が音楽をやってなかったんじゃないかというくらい」だと述べている。他には、「10代20代の節目となった曲」として、の「I’ll Stick Around」とReefの「Naked」を、「音楽を始めてから影響を受けた曲」として、の「」、の「夜明けの歌」をあげている。「100年後も誰かの心に残っていて欲しい曲」はの「」との「」だと述べている

結成時には後藤からのスカウトを受け入れる形でアジカンに加入しました。

実は地味に(ニュースになってないので)海外公演の引合いとか、実際に海外に行ったりだとか、数年前からあるんですね、アジカンって。豚インフルエンザとかSARSとか、または急遽「会場にドラムありません」とか、そういう理由で実現しなかった公演とかもあります。で、そういう機会もあるので英語で歌ってみようかしらん、とは俺はあまり思わないタイプで、多分、自分の考えていること感じていること、というか詩のクオリティとして、言語的な能力と直結しているのは日本語での技術なんですね、否応なく。だから、ここ一番の場面で「左手で投げてみようかしらん」とどこかの投手が思ったりしないのと同じように、俺は英語とかスペイン語で書いてみようとは思わないんです。これ、音ではなくて、あくまで詩として考える場合ですけど。

アジカンのメンバーで結婚しているという情報があるのは、の2人です。

「All right part2」の言葉遊びとか、「AとZ」の言葉遊びもそうですが、基本的に日本語でしか理解できないやり方なんですね。アジカンのアルバムは、『ワールドワールドワールド』から全曲英訳の歌詞を添付していますけれど(海外の人に向けて)、それを読んでも「あいうえお」順に書いていることの遊び心は伝わらないですから。もちろん、単にシュールにならないようには書いてますけど。

アジカンが人気な理由はいくつかありますが、その大きな理由のひとつが。

バンド名の由来は、後藤が当時好きだったが、英単語を3つ使用している事から「3つ単語を使おう」と思い立ち、考えた末に「ASIAN KUNG-FU GENERATION」で決定。略称は、「アジカン」。文字媒体では「AKG」または「AKFG」と称される事もある。

前述した通り、特にファンから言わせると、アジカンの曲はハズレなしなのです。

このようなアジカン初心者の人に向けて、この記事では、アジカンについてや各メンバーの詳しいプロフィール、結婚しているメンバーはいるかなどを徹底的に解説します!

初期の頃と比べると、もはや別人である。(15年以上の時が流れてるのもあるか

2011』」を横浜アリーナにて開催。
■7月30日 韓国 仁川「INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL2011」出演。
■7月31日 後藤正文が編集長を務める新聞「THE FUTURE TIMES」を発行。
■10月12日 渋谷LOOP annex 伊地知潔 PHONO TONES初ライブ。
コスモスタジオ(喜多建介&山田貴洋)
■10月29日 代々木第一体育館「東日本支援ライブ」出演。

驚くべきはメンバー4人の内3人が人生で初めて組んだバンドがアジカンだったということ。

メンバーの内、後藤・喜多・山田に関してはアジカンが生まれて初めて組んだバンドだったというから驚きですね。

アジカンを知らなかった人は、ぜひこの記事で紹介した曲を聴いてみてくださいね。

実はこの曲も「斜(7)めになって」「蜂(8)になって」「苦(9)しくなるなら」「遠(10)のいて」「一時(1)の曇り」......と日本語パートも数え歌を続行しています、地味に。これはどんな言葉に訳しても、日本語でないと理解できないですよね。例えば、村上春樹さんの小説が世界で評価されるのは、内容として、こういう英語にした場合に理解されないところがないというか、越境的というか、そもそも国境や言語の壁が内容として敷かれていなんだと俺は思うんですが、改めて、自分は日本人で、しかも内向きな表現をしているんだなと思うんです。こういうアルバム全体の言葉遊びを考えると。

初期の曲のどれもそうだが、絶妙な切なさが含まれているのが良い。

最初に音楽に興味を持ったきっかけは、小学生の頃にカーステレオで流れていた曲ですね。サザンオールスターズ、井上陽水、マイケル・ジャクソンなどがカセットに入っていて、じいちゃんちに行くときなんかにずっと聴いてました。中でもサザンは両親が大ファンということもあってめちゃくちゃ印象に残ってます。特に「KAMAKURA」(1985年発売)というアルバムはよく車の中で流れていて。今聴いてもめちゃくちゃ凝ったサウンドデザインのアルバムなんですけど、当時から「すごいカッコいい」と思ってました。親の車のカーステだからどれだけ音の再現性があったかはわからないですけど(笑)。

テレビの歌番組もよく観てました。ジャニーズが好きで、少年隊の「stripe blue」(1987年発売)なんてぶっちぎりで曲がよくて。光GENJIもデビュー曲の「STAR LIGHT」(1987年発売)から衝撃的にカッコよかった。のちに「あれは飛鳥涼(ASKA)の仕事だったのか」と知るわけですが、その頃はそんなことは関係なくミーハーに飛び付いてました。

初めて自分で買ったCDはTHE BLUE HEARTSの「青空」(1989年発売)。小6か中1の頃、父親が忘年会の抽選会でAIWAのCDラジカセを当てて俺にくれたんですよ。それがめちゃくちゃうれしくて。さらにCDを1枚買ってもらえることになって選んだのが「青空」ですね。本当は「リンダリンダ」とか「TRAIN-TRAIN」みたいな激しい曲がよかったんですけど、すみや(静岡を中心にしたチェーン店)に置いてあるシングルCDが「青空」だけだったので。アルバムは高いから「買って」とは親に言い出しづらくて。THE BLUE HEARTSを知ったのはたぶん、「はいすくーる落書」の主題歌(「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」)として聴いたか、友達に教えてもらったか。最高でしたね。どんな人たちかはまったく知らなかったですけど。

バンドへの興味ということではユニコーンが大きかったです。友達に「服部」(1989年発売)を借りたんですけど「すごいヘンなバンドだな」と(笑)。メンバー全員歌ってるし、「人生は上々だ」なんてどんどんキーが上がって、最後は歌えなくなるっていう。ジャケットは爺さんの写真だし「なんだこれは?」と思いつつ、自分のツボを妙に刺激されたというか。本屋でユニコーンが載ってる「PATiPATi」を立ち読みしたり、表紙のときは買ったりして、どんどん興味が湧いてきて。特に民生さんが好きで「奥田民生ショウ」という本も読みました。その頃は「民生」って呼んでましたけど(笑)。ただのファンですね。民生さんの影響で、中学のときにギターを触ってみたことがあるんですよ。「ヒゲとボイン」(1991年発売)に「風」「風 II」という曲が入っていて。「ダウンタウンのごっつええ感じ」でメンバーが替え歌を歌ってるのを観たときに「これなら難しくないし、弾けるかも」と思ったんです。バンドスコアを買って、親父のギターを弾いてみたんだけど、ネックが反りまくってて全然弦が押さえられなかったんですよ。「これは指が千切れる」と思って、ミュージシャンになるという発想は、弦高が高すぎるMORRISのアコギに弾かれました(笑)。ひょうきんな野球少年だったし、その後もバンドをやろうなんて思ったこともなかったですね。

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ASIAN KUNG-FU GENERATION』発売。
■7月4日 渋谷CLUB QUATTRO「Analogfish x ASIAN KUNG-FU GENERATION」出演。
■7月12日13日 自主企画イベント「ASIAN KUNG-FU GENERATION presents 『NANO-MUGEN FES.

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高校生になるとどんどん洋楽の情報が入ってきました。静岡って実はパンク王国で、90年代の初めにはBad Religion、Green Day、NoFXなどがけっこう流行っていて。野球部の友達から教えてもらった、にら子供というバンドも面白かったですね。曲は「野方一丁目クソババァ Fuck off」とかなんですけど(笑)。「こういう世界があるんだな」と思いました。

高校時代はオールディーズもよく聴いてました。当時流行っていたアメカジから50'sファッションにハマって、ジーンズやスニーカーに凝り始めて。GOWESTのデニムを静岡で買ったりしてたんですけど、その流れで「監獄ロック」「Johnny B. Goode」などが入ったテープを聴いてたんですよ。テープに「Moon River」も入っていて、めちゃくちゃいい曲だなと思ってました。ただ、その頃も自分でバンドをやるという発想はまったくなかったです。パンクは不良っぽくてカッコいいヤツというか、特別なコミュニティにいる人間がやるものだと思ってたし、自分は相変わらず野球部ですからね。音楽は好きだったけど、ただ聴いてるだけでした。

中学まではまったく勉強に苦労しなかったんですが、高校に入るとどんどん成績が下がって。高校の勉強は努力しないとダメじゃないですか。予習、復習なんてまったくやらなかったし、部活がきつくて授業中はほとんど寝てて。中学の先生に「お前は高校生になったら落ちこぼれるぞ」と言われてたんですが、その通りになりましたね。夏の高校野球の予選が終わって「さあ、どうしよう」と。学力的に大学は無理だったし、ファッションが好きだかったら「文化服装学院に行きたい」と親に言ったら、絶対にダメって猛烈に反対されて(笑)。いろいろ考えて、唯一ちょっと成績がよかった生物に賭けようと思って、じいちゃんが農家だったり、じいちゃんの兄弟が農学部の教授だったこともあって適当に農学部に行こうと決めたんですけど、怠け癖が直らず、浪人決定。新聞奨学生として東京の立川に引っ越して、予備校に行くことになりました。