ドル・ショックの衝撃 ――1971年、戦後国際金融制度が崩壊した日
「最近における国際通貨制度(動揺)の原因はいろいろあるが、その一部は通貨制度自体が実情に合わなくなってきていること、その不必要な硬直性とに求められる。ドルは世界の準備通貨、決済通貨として広く使われており、この現実はいかんともし難い。米国の物価安定策と国際通貨制度全体とは、切り離して考えるわけにはいかない。もちろん問題は米国経済のみにあるのではない。多額かつ持続的な貿易収支の黒字を持っている主要国が輸入制限の自由化、特段の輸出振興策の廃止、あるいは能力いっぱいまでの国内経済の拡大の点において遅いという問題もある。これらの国々の黒字を減らすことは、米国、英国、フランスなどの赤字をなくすのと同様に重要なことであり、問題は過度のインフレやデフレを招くことなく、どうやってそれを実現するかである。このような観点から内外で為替相場制度が問題になってきている」
昭和46年(1971)8月15日、アメリカのニクソン大統領は金・ドル交換停止を発表します。財政赤字と貿易赤字に苦しむアメリカが、ドルの裏付けである金保有量の減少を防ぐことを意図したドル防衛策でした。これにより主要各国は変動相場制に移行し、ドルに対して自国通貨を切り上げます。
この年12月にワシントンのスミソニアン博物館で開かれた10か国蔵相会議は新たな固定相場を定め、円は1ドル=308円となりますが、ドルが切り下げられてもアメリカの貿易赤字は止まらず、昭和48年までに日本を含む主要国は変動相場制に再移行します。
輸出を牽引車〔けんいんしゃ〕としてきた日本経済は、円の切り上げにより大きな曲がり角を迎えることになります。
すでに頭打ちとなりつつあった尼崎の製造業にとって、ドル・ショックは拡大から停滞・縮小への転換点となりました。下のグラフから、それまで右肩上がりだった各指標が、昭和46年には縮小ないし横ばいに転じたことがわかります。
ドル・ショックをきっかけに倒産する企業も現れました。昭和46年12月17日付の朝日新聞阪神版は、尼崎市内でドル・ショックの影響による中小企業倒産が表面化した最初の例として、日研製作所の倒産を報じています。記事によれば、従業員163人の同社は小型工作機械・精密機械部品などを輸出する、全国的に名を知られた存在でした。円高による輸出不振は、こういった中堅メーカーにも容赦なく襲いかかります。
頭越し外交を恐れるな (日本を襲ったドル・ショック(特集))
さらに追い打ちをかけたのが、昭和48年10月に始まる石油危機(第一次オイル・ショック)でした。第四次中東戦争をきっかけにペルシャ湾岸6か国が原油公示価格の21%引き上げを決定。次いでアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が減産とイスラエル支持国への輸出制限を開始。さらに石油輸出国機構(OPEC)が昭和49年1月の公示価格2倍値上げを通告。これにより原油価格は、石油危機以前の1バレル=3ドル1セントから11ドル65セントへと、4倍近く値上がりすることになりました。
石油価格上昇をきっかけに、「狂乱物価」と言われる猛烈なインフレが始まります。昭和49年10月までの1年間に、消費者物価・卸売物価とも全国平均で約24%上昇。安価な石油供給のうえに成り立っていた日本経済は、大きな危機に直面します。
ふたたび前掲のグラフに目を転じると、ドル・ショック後減少した尼崎製造業の製造品出荷額等総額はいったん持ち直したものの、昭和50年にふたたび減少に転じたことがわかります。石油危機の影響が、約1年遅れでダメージとなって表れたものと考えられます。
次項に紹介した各企業の対応や経営者の述懐〔じゅっかい〕からは、石油危機があらゆる製造業分野にとって従来にない、大きな試練であったことがわかります。厳しい合理化・省エネルギー策がとられ、さらには石油危機をきっかけに生まれた新たな需要に対応していくことで、それぞれの企業はこの危機に対処していきました。
1961年のベトナム戦争への米国の軍事介入、インフレ高進は、海外へのドル流出を加速させる結果を招く。国際収支のアンバランスが構造的なものと判断されるようになると平価変更を認めるのがIMF体制の建て前だ。ポンド危機が発生した英国は1967年11月18日ポンドを14・3%切り下げた。これは共同通信ロンドン電のスクープで第一報が報じられ、当時大蔵省担当だった私は大いに鼻が高くなるのを覚えたものだ。眼を世界に転じると、このポンド切り下げはドルの切り下げにつながるとの憶測を呼び、ドルを金に換える動きが激化した。この動きは国際通貨の怪しげな雲行きを感じさせるに十分なものがあった。米国からの金流出対策として1968年3月、金市場を公的市場と自由市場に分けた金の二重価格制(政府の金を民間市場に売ることを共同で停止した)が導入された。私の取材メモに残る。この時、宇佐美洵日銀総裁は「これから何が起こるか分からない」と不安感を漏らした。宇佐美さんがやがて来るニクソン・ショックまで予知していたとは思えないが、国際通貨体制の危機を感じ取っていたことは確かだろう。私に国際通貨問題の重大性を認識させるきっかけになったのは、この金の二重価格制である。世界経済はまさしく大きな曲がり角に差し掛かっていた。
(昭和52年発行、同社『最近十年史』より)
「(ドル・ショックによる)輸出の一時的混乱と国内需要の停滞により、鉄鋼業界の先行き見通しはさらに暗澹たるものとなった」
「生産の七〇%以上が輸出に向けられていた鋼管製造所(尼崎)では、主力の第一製管工場が四十七年一月以降二交替操業へシフトダウンして減産を余儀なくされるなど苦境に追い込まれ、全所を挙げて省力をはじめとする非常時合理化計画を推進…」
こうしてドル・ショックを乗り切った同社は、石油危機下においても減産することなく、エネルギー使用量規制や原材料費高騰を合理化と価格転嫁により克服していきます。石油危機の影響で世界的に資源開発が活発化したため、同社の製造する油井・油送用鋼管は需要が大幅に増大し、昭和50年頃まで生産は繁忙〔はんぼう〕をきわめたと言います。
円切り上げ問題は、日本経済全体に大きくのしかかってきた。メディアもこの問題から片時も目を離すことはできない。特に大蔵省、日銀担当の第一線記者は通貨問題のフォローに重責を担うことになった。経済専門家のこの問題を巡る論争が日を追って白熱化してくる。円切り上げ反対の急先鋒は三菱銀行調査部だ。1969年10月の調査部レポートは「マルクが切り上げられたことから、最近ではマルクの次は円の切り上げだという言葉が、新聞、雑誌の論説や国際会議のロビーでささやかれるようになっていると伝えられる。現行の1ドル=360円という対ドル平価はほぼ適正と判断される。円の平価が問題になるということ自体が 日本人にとっては大きな驚きであり、経済の土台が根底から揺り動かされているように感じる」と勇ましい。この後、同調査部の英文誌(1971年7月号)は「われわれは円切り上げの必然性を全く認めないし、現状のわが国経済の置かれた状態からみて、平価調整は対内的にも対外的にも最も拙劣にして実りの少ない政策と考える」と断じた。
日本の経済は,昭和46年夏のドルショックと, 続く48年暮のオイルショック以降、為替と原油に揺さ
(尼崎商工会議所会頭、『尼崎経協』第133号-尼崎経営者協会、昭和53年11月-より)
「石油ショック以来世界の様相が全く変わり、どの国もインフレに悩まされ混乱の渦中から脱しきれない状態が現在です。わが国も例に漏れず、繊維〔せんい〕、造船、鉄鋼界も大変です。今では高成長時代を夢見る経営者は全くおりませんが、わが国は外国と違って終身雇用制であり、情も重なり簡単に人員整理も出来ません。従って経営者は辛抱に辛抱して、景気の回復を待ち、堪え忍んでいる方々が多いんです」
「ニクソンショック」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書
(尼崎経営者協会常務理事、前掲『尼崎経協』第133号より)
「大企業の下請事業や零細企業の多い尼崎は、その(ドル・ショック、石油危機の)影響は一層深刻で工場街の火は次第に小さくなり企業の事業縮小や閉鎖停止など零細企業は青息吐息の状態。従って市の人口も(昭和)四五年の五五万余人から五三年の今日では五三万七千人と漸減」
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このニクソン・ショックは日本の通貨外交、経済政策の在り方はもちろん、取材側の対応にも多くの教訓を残した。その後、世界ではエネルギー危機やアジア金融危機、リーマン・ショックなど、さまざまな経済危機が頻発したが、ニクソン・ショックの世界経済に対する影響は延々と今日まで続いている。
ニクソンショック(Nixon shock) とは? 意味・読み方・使い方
1971年8月15日夜(日本時間16日午前)、米国のニクソン大統領がドルと金の交換停止などのドル防衛策を発表した。ニクソン・ショックやドル・ショックと呼ばれる事...
3月23日(木)「サブカルおばさんたちの通う女子校」聖ドクダミ女学院 Vol.11 <ゲスト講師:ドルショック竹下>.
1971年5月にマルク投機が発生、マルクが変動相場制に移行したことは、玉突きのように日本円を窮地に追い詰める作用をした。円の購買力が高まっているのは事実としても、国内経済界に根強い円切り上げ反対論を無視して切り上げに踏み切る勇気は政治にはない。緊迫化してきた情勢にどう対処するか、何とかして円切り上げを回避したいと政府が6月に急きょ打ち出したのは、輸入自由化の促進をはじめ、特恵関税の早期実施、関税引き下げの推進、資本自由化、資本輸出の促進、非関税障壁の除去、経済協力の促進、秩序ある輸出の確立をちりばめた円対策8項目(総合的対外経済政策)だ。だが自由化などは関係者間の調整が一筋縄ではいかないから小出しにするしかない。一方海外からは円切り上げ圧力がいよいよ猶予ならない事態に突入している情報が次々に入ってくる。6月下旬米国での日米財界人会議から帰国した岩佐凱実富士銀行会長が明らかにした米国内の空気はこうだ。
ジャパンアーカイブズ、証券(昭和46年)▷ニクソンショック(ドルショック)についてのページです。
ブレトンウッズ体制とは、第二次大戦後に米国を中心に作られた、為替相場安定のメカニズムです。1944年、米国にあるブレトンウッズホテルに連合国の代表が集まって決められたので、「ブレトンウッズ体制」と呼ばれています。
これは、第二次大戦の遠因でもあった為替相場切り下げ競争の再発を防ぎ、戦後の復興に欠かせない貿易の円滑な発展のための決済システムを作ろうというものです。基本的には、戦前の金を国際決済手段とする金本位制への回帰ですが、過去と異なる点は、各国通貨と米ドルの交換比率を固定し、ドルだけが金と交換比率を固定するという、ドルを間に挟んだ金本位制です。これを金・ドル本位制と呼ぶこともあります。
金とドルの相場を固定し、ドルと各国通貨の相場を固定するということは、金本位制と実質的には同じと思われるかもしれません。違いは、金本位制では各国間の決済が原則的には金で行われていたのに対し、金ドル本位制ではドルで行われたということです。金は紙の通貨と違って貿易量の増加に従って柔軟に流通量を増やすことが出来ません。近代以降の経済規模の急速な拡大の前に、金を決済手段とする利便性は大きく低下していました。通貨発行量が拡大しやすい一国の通貨、米ドルが金にとってかわったのです。
それならば金・ドル本位制ではなく、ドル本位制にすればいいではないかと思うかもしれませんが、まだこの時代は、国際通貨は、使用者が共通の価値を認める何かしらの物的な担保を持たねばならないとの固定観念から抜け切れてなかったのだと思います。しかし、金の量は増えないのにドルの量は経済回復につれて増えていきます。増えない金を担保に米ドルが増発されるという点にブレトンウッズ体制の矛盾がありました。誰の目にも、ドルの金との交換比率が下落していくのは自明でした。
ニクソンショックによってこの金・ドル本位制が崩れました。各国の通貨価値が、アンカーなく変動相場制を漂うことになったのです。では、国際通貨制度は担保を失ったのでしょうか。その後、主要国政府中銀は、通貨や金融の安定のために共通の金融規制作りやマクロ政策協調に力を注ぎました。この国際協調というソフト・コラテラルこそが、金に代わる国際通貨制度のアンカーとして発展していったのだと思います。
変動相場制(へんどうそうばせい) | 証券用語集 | 東海東京証券株式会社
1971年、ドルの流出によるインフレという経済危機に直面したニクソン大統領は、ドルと金の兌換停止などを主眼とする思いきった経済政策を打ち出し、世界に衝撃を与えた。それをドル=ショックという。
【ちむどんどん第21話】ドル・ショックで便乗詐欺も 朝ドラ「ちむどんどん」キーワード集【ネタバレ注意】 ..
1971年、ニクソン大統領が、ドル防衛政策を打ち出し、ドルと金の兌換停止に踏み切ったことは、戦後世界経済のブレトンウッズ体制を崩壊させ、同時に打ち出した10%の輸入課徴金の賦課は、同じく戦後世界経済の原則であった自由貿易主義を揺るがすこととなった。
輸出依存度の高いわが国経済への影響は大きく、“ドル・ショック”あるいは“ニクソン・ショック”と呼ばれた。
果たしてこの程度の対策の内容で円切り上げ圧力をかわせると大蔵省は信じていたのだろうか。“背水の陣”は振り返ってみれば、 日本政府の周章狼狽ぶりを露呈したお粗末なパフォーマンスにすぎなかった。当時私たち取材の第一線にいた者は、目先の動きを追うのに精いっぱいで問題の核心は何かについて考えをめぐらすことをしていなかった。今にして思うと、西ドイツがマルクを切り上げ、続いて変動相場制に移行した後、米国は日本が追随して円を切り上げるのか重大な関心を持って見守っていたのだろう。日本がIMF体制の危機的な状況、黒字国としての国際的な責任をはっきり認識していれば、この時、国内に頑強な反対論が予想されるにせよ、景気総合対策ではなく、万難を排して円を切り上げる選択肢はあったと思う。
1971年8月15日、米大統領ニクソンが発表したドルと金の交換停止などの措置。それによってドルを基軸とした国際通貨制度が動揺した。
世界の耳目を驚かした歴史上の大経済事件、ニクソン.ショック。それは1971年8月15日(日本時間16日)のことだった。私はこの前後5年にわたって大蔵省、日銀を担当し、ショックの時点では日銀キャップとして渦中にもろに巻き込まれた。マグニチュード9クラスの地殻変動に襲われて通貨当局は上を下への大騒動、共同通信社の外信部のテレックスはワシントン支局などからの送稿がひっきりなしで機関銃玉のように鳴り続けた。米国のニクソン大統領が特別演説で発表した金とドルの交換停止、10%の輸入課徴金の実施といった緊急経済対策で世界経済全体が大混乱に陥り、世界的リセッションが憂慮される事態となった。米国も随分勝手なことをやるもんだというのが第一印象だ。これから事態はどう展開するか皆目見当もつかないが、ともかく取材をやり抜かなければならないと武者震いするような高揚感は間違いなくあった。