経緯は、新入生歓迎会で出会った日に喜多が大学の夜間学部に通っていた後藤を誘い、翌日に確認作業を経てアジカン結成。
予備校の授業にはあまり出てなかったんですよ。最初は行ってたんだけど、成績がよかったから、また怠け癖が出てきて「こんな感じで適当にやってたら、どっか受けるだろう」と。ダメですね(笑)。関東学院大学を受験したのはまったくの偶然。Oasisのアルバムを貸してくれた友達に「横浜の端の大学を受験する。遠いし、寂しいから、一緒に受けてよ」と言われて、「いいよ」って(笑)。学校の名前すら知らなかったんだけど、なぜか自分だけ受かっちゃったんです。「まあ、ここでいいか」という感じだったし、高校を卒業してからは行き当たりばったりですね。ただ、立川で浪人しなかったら音楽をやってなかっただろうし、関東学院大学を受験しなかったら、アジカンのメンバーとも会えてなかったわけで。結果的にはよかったんですけど、すごく不思議な感じがします。
大学に入ったらメンバーを集めてバンドをやろうと決めてたし、思い立ったら早かったですね。最初のライブからオリジナル曲をやっていたし、学園祭のときはすべて自分で作ったオリジナル。そのときは曲を書くメンバーがもう1人いて。そいつはその後デザイナーになって「The Future Times」やレーベルのロゴを作ってくれてます。ほかのアーティストのカバーをあまりやらなかったのは、人のマネをしてもしょうがないだろうなと思ってたから。例えばOasisのカバーをやっても、あんなふうにカッコよく歌えないじゃないですか。「Live Forever」もそうだけど、リアム・ギャラガー以外の人が歌っても大してカッコよくならないし、ああ言う感じにならないので。憧れはありましたけどね。チンピラみたいな兄弟がロックバンドで突き抜けていくっていう。
ただ曲を作ることに関しては、ノエル・ギャラガーの影響をめちゃくちゃ受けてます。コードが3、4つあれば曲を作れることを教えてくれたのはノエルなんですよ。ライブの映像を観ればわかりますけど、弦を押さえている左手がほとんど動かないんです。add9、sus4系のコードを弾いて、ベースが動くというアレンジが基本になっていて。ユニコーンよりもはるかに簡単だし、「これなら俺にもやれる!」と勘違いしちゃったんですよね(笑)。「え、こんなに簡単なコードだけで、こんなにいい曲を書けるの?」のオンパレードだし、ノエルの曲の構造を自分なりに調べて、「こういう組み合わせになってるのか」と少しずつ理解できたことが、自分の曲作りにつながったんですよね。
新宿のレコード屋でブートレグのビデオを買って、ノエルがギターで何をやってるのかを何度も繰り返して見たりして、いろいろ研究してましたね。途中で間違えて録画ボタンを押してしまって、いいところで「郁恵・井森のお料理BAN!BAN!」が入ってしまう事件もありましたけど(笑)。歌詞の書き方もそう。「ティッシュ(tissue)」と「イシュー(issue)」、「ステイ(stay)」と「アウェイ(away)」みたいに語尾をそろえると、メロディが気持ちよく聴こえるんだなとか。当時は韻を踏むということも知らなかったんだけど。頭韻、脚韻も知らないし、文学とかにも明るくなかったから手探りでした。
その後、「ノエルだけに頼ってたら、これ以上はどこにも行けない」と思い始めて。その時期に聴いたのが、Weezer。僕が最初にガツンと来たのは「Pinkerton」(1996年発売)だったんですけど。友達にパワーコードの弾き方を教えてもらって、さっそく曲作りに取り入れました。その頃は「ほかのバンドとは違う曲を作らなくちゃいけない」という気持ちが強かったんです。アジカンはテクニックで聴かせられるバンドではないし、曲が面白くないとダメだろうなと。Weezerは構成がヘンな曲が多くて、すごく参考になりました。日本のバンドからも刺激を受けてましたね。メロコア以外の日本のバンドにはそこまで惹かれなかったんですけど、BEAT CRUSADERSやPENPALSに勝手に共感していて。そのあたりからですね、現在のアジカンのスタイルに近付いてきたのは。
新聞配達はめちゃくちゃ大変でしたけど、そのおかげで東京に出てこられたので今となってはすごく感謝してますね。風呂ナシ、トイレ共同だけど、家賃はタダだし、まかないもあったし、月に5万くらい使えるお金があって、CDもけっこう買えるようになりました。音楽に詳しい友達もできたし、夜中に「BEAT UK」(1990年にフジテレビ系列で放送が始まった洋楽情報番組)を観て「こんなにカッコいい音楽があるのか!」と刺激を受けて。
一番デカかったのは、Oasis、ベック、Teenage Fanclubですね。Oasisは友達に教えてもらいました。最初に聴いたのは、1stアルバムの「Definitely Maybe」(1994年発売)。「Rock 'n' Roll Star」で始まって、3曲目で「めちゃくちゃいい!」と電気が走って。まあ2曲目の「Shakermaker」は、イギリス人じゃないとよさがわからない曲だと思うんですよ。「Rock 'n' Roll Star」はともかく、2曲目が「Shakermaker」なんて、アルバムを売る気あるのかよ!と思いましたけど(笑)、3曲目の「Live Forever」が流れ始めて、リアム・ギャラガーが歌い出した瞬間、完全にヤラれました。ベックは「Loser」ですね。1stアルバムの「Mellow Gold」(1994年発売)はわかりやすいアルバムじゃないけど、「Loser」を聴いたとき「めちゃくちゃ変わった音楽だな」とインパクトがあって。ずっと続いているフォーキーな音楽への興味は、ベックの影響でしょうね。Teenage Fanclubは「Bandwagonesque」(1991年発売)から聴き始めました。彼らはとにかく曲がよくて、「やっぱり洋楽は強いな」と。
浪人時代はライブにも行ってましたね。新宿にあったLIQUIDROOMでReefの初来日、CLUB CITTA'ではFoo Fightersの初来日を観ました。その頃はCLUB CITTA'に洋楽のバンドがよく来てたんですよ。南武線で立川から川崎まで行くので、めちゃくちゃ遠かったな(笑)。RadioheadやWilcoを聴き始めたのも同じ年だし、あの1年は自分の音楽人生にとってめちゃくちゃ重要ですね。初めてエレキギターを買ったのも浪人生のとき。立川の質屋で、アンプとギターのセットを買って。4万8000円くらいだったのかな? よくわからないメーカーだったんですけど、歪んだ音が出せるアンプで、部屋で鳴らしてました。
後藤:そうそう。でも、そういうことをやってるうちに今度は音楽全体で、使ってる音域が変わってきて。ヒップホップとかR&Bとか、アメリカのポップ・ミュージックの最前線の人達がすごい低い音域を使い始めた。何なら30Hzくらいの音が足されてたりして。本当に振動みたいな音が入ってきて、めちゃくちゃローエンドに広がったんです。そうなってくると、Foo Fightersですら若干アジャストできていないくらい、ロックバンドの音作りが難しくなってきた。今まで音楽的にエッジィであること、サウンドがエッジィであることっていうのがロックバンドの面白さだったのに、違う角度から違う面白さが出てきちゃった。
後藤正文が語る「もう都会に住む必要はない」 故郷・島田の思い出
高校生になるとどんどん洋楽の情報が入ってきました。静岡って実はパンク王国で、90年代の初めにはBad Religion、Green Day、NoFXなどがけっこう流行っていて。野球部の友達から教えてもらった、にら子供というバンドも面白かったですね。曲は「野方一丁目クソババァ Fuck off」とかなんですけど(笑)。「こういう世界があるんだな」と思いました。
高校時代はオールディーズもよく聴いてました。当時流行っていたアメカジから50'sファッションにハマって、ジーンズやスニーカーに凝り始めて。GOWESTのデニムを静岡で買ったりしてたんですけど、その流れで「監獄ロック」「Johnny B. Goode」などが入ったテープを聴いてたんですよ。テープに「Moon River」も入っていて、めちゃくちゃいい曲だなと思ってました。ただ、その頃も自分でバンドをやるという発想はまったくなかったです。パンクは不良っぽくてカッコいいヤツというか、特別なコミュニティにいる人間がやるものだと思ってたし、自分は相変わらず野球部ですからね。音楽は好きだったけど、ただ聴いてるだけでした。
中学まではまったく勉強に苦労しなかったんですが、高校に入るとどんどん成績が下がって。高校の勉強は努力しないとダメじゃないですか。予習、復習なんてまったくやらなかったし、部活がきつくて授業中はほとんど寝てて。中学の先生に「お前は高校生になったら落ちこぼれるぞ」と言われてたんですが、その通りになりましたね。夏の高校野球の予選が終わって「さあ、どうしよう」と。学力的に大学は無理だったし、ファッションが好きだかったら「文化服装学院に行きたい」と親に言ったら、絶対にダメって猛烈に反対されて(笑)。いろいろ考えて、唯一ちょっと成績がよかった生物に賭けようと思って、じいちゃんが農家だったり、じいちゃんの兄弟が農学部の教授だったこともあって適当に農学部に行こうと決めたんですけど、怠け癖が直らず、浪人決定。新聞奨学生として東京の立川に引っ越して、予備校に行くことになりました。
「25歳くらいまでに声がかからなかったら、やめようかな」とあきらめかけていた頃に、今のマネージャーと出会って、メジャーデビューが決まりました。決して早いデビューではなかったし、土俵際ギリギリでしたね。デビューしたあとも、いろいろな音楽を聴いて影響を受けてます。ニューウェイブリバイバルの頃に「ファンクラブ」(2006年発売)を作ったり、海外のインディロックを聴きまくって「マジックディスク」(2010年発売)につながったり。The Streetsやカニエ・ウェストを聴いて、「これからは言葉の時代だ」なんて言って「新世紀のラブソング」(2009年発売)でラップをやったりね。世界の潮流で何が流行ってるのかが気になるし、リスナーとしてもそういうアーティストが好きなんです。ベックなんてまさにそうですよね。Foo Fightersみたいに、スタイルを確立したうえでアップデートしていくのもいいなと思いますけど。その両方を実現させたくて、アジカンとソロの両輪になったんじゃないかな。
最近リリースしたソロ曲「Nothing But Love」に限らず、曲を作ってるときは「ラッパーの言葉遣いに肉薄したい」というテーマがあります。ラップミュージックは世界的な音楽になりましたよね。ただ自分はバンドマンなので、そこに無闇に乗っかってもなという気持ちがあって。例えば、生音の“なまり”と打ち込みのビートを融合させたいなって。その上で、自分なりの歌い方を考えてみようと。「Nothing But Love」のビートは、シモリョー(the chef cooks me)が打ち込んだデモを、skillkillsのドラマー・さとしくんが生で叩いていて。かなりヨレていて難しいんだけど、そのグルーヴを完璧に表現できるんですよね。同じくシモリョーが編集したギターのフレーズを井上陽介くん(Turntable Films、Subtle Control)が演奏して、それもすごくて。ベースもシモリョーが手弾きで打ち込んでいるし、すべて人力なんですよね。今、素晴らしいミュージシャンの助けを借りて、自分がやりたいことを形にしているところです。
最初に音楽に興味を持ったきっかけは、小学生の頃にカーステレオで流れていた曲ですね。サザンオールスターズ、井上陽水、マイケル・ジャクソンなどがカセットに入っていて、じいちゃんちに行くときなんかにずっと聴いてました。中でもサザンは両親が大ファンということもあってめちゃくちゃ印象に残ってます。特に「KAMAKURA」(1985年発売)というアルバムはよく車の中で流れていて。今聴いてもめちゃくちゃ凝ったサウンドデザインのアルバムなんですけど、当時から「すごいカッコいい」と思ってました。親の車のカーステだからどれだけ音の再現性があったかはわからないですけど(笑)。
テレビの歌番組もよく観てました。ジャニーズが好きで、少年隊の「stripe blue」(1987年発売)なんてぶっちぎりで曲がよくて。光GENJIもデビュー曲の「STAR LIGHT」(1987年発売)から衝撃的にカッコよかった。のちに「あれは飛鳥涼(ASKA)の仕事だったのか」と知るわけですが、その頃はそんなことは関係なくミーハーに飛び付いてました。
初めて自分で買ったCDはTHE BLUE HEARTSの「青空」(1989年発売)。小6か中1の頃、父親が忘年会の抽選会でAIWAのCDラジカセを当てて俺にくれたんですよ。それがめちゃくちゃうれしくて。さらにCDを1枚買ってもらえることになって選んだのが「青空」ですね。本当は「リンダリンダ」とか「TRAIN-TRAIN」みたいな激しい曲がよかったんですけど、すみや(静岡を中心にしたチェーン店)に置いてあるシングルCDが「青空」だけだったので。アルバムは高いから「買って」とは親に言い出しづらくて。THE BLUE HEARTSを知ったのはたぶん、「はいすくーる落書」の主題歌(「TRAIN-TRAIN」「情熱の薔薇」)として聴いたか、友達に教えてもらったか。最高でしたね。どんな人たちかはまったく知らなかったですけど。
バンドへの興味ということではユニコーンが大きかったです。友達に「服部」(1989年発売)を借りたんですけど「すごいヘンなバンドだな」と(笑)。メンバー全員歌ってるし、「人生は上々だ」なんてどんどんキーが上がって、最後は歌えなくなるっていう。ジャケットは爺さんの写真だし「なんだこれは?」と思いつつ、自分のツボを妙に刺激されたというか。本屋でユニコーンが載ってる「PATiPATi」を立ち読みしたり、表紙のときは買ったりして、どんどん興味が湧いてきて。特に民生さんが好きで「奥田民生ショウ」という本も読みました。その頃は「民生」って呼んでましたけど(笑)。ただのファンですね。民生さんの影響で、中学のときにギターを触ってみたことがあるんですよ。「ヒゲとボイン」(1991年発売)に「風」「風 II」という曲が入っていて。「ダウンタウンのごっつええ感じ」でメンバーが替え歌を歌ってるのを観たときに「これなら難しくないし、弾けるかも」と思ったんです。バンドスコアを買って、親父のギターを弾いてみたんだけど、ネックが反りまくってて全然弦が押さえられなかったんですよ。「これは指が千切れる」と思って、ミュージシャンになるという発想は、弦高が高すぎるMORRISのアコギに弾かれました(笑)。ひょうきんな野球少年だったし、その後もバンドをやろうなんて思ったこともなかったですね。
大学卒業後、後藤は小さな出版社の営業として働いており、この時の経験から裏方の気持ちが解ると語っている。
アジカン後藤正文設立「APPLE VINEGAR -Music Award-」
リアルサウンド テックの連載企画「音楽機材とテクノロジー」にて、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文にインタビューを行った。テーマの中心は、ロックバンドが今の時代に向き合う“低域“についてだ。
フジファブリック山内×アジカン後藤×くるり岸田、対バンライブを前にフロントマン鼎談.
メンバーの内、後藤・喜多・山田に関してはアジカンが生まれて初めて組んだバンドだったというから驚きですね。
アジカン後藤正文主宰<APPLE VINEGAR -Music Award->が今年も
後藤:そうなんですよ。それで、いろんな疑問がつながったんです。たとえばFoo Fightersのスタジオでドラム、ベースを録ってる時に、なんで大きなスピーカーでモニタリングするのかというのも、低音が出るからなんです。小さいスピーカーで録るより迫力があって、どう鳴ってるかがわかる。俺たちが思ってる以上に、欧米のロックの人達はボトムを聴いてたんだと思ったんですよね。あとは、個人的に「どうして日本のロックは音が上ずってるのか」っていうことを研究してたのもあって。
ASIAN KUNG-FU GENERATION アジカン 後藤正文 ピック
その後、ギターが一人抜け、同サークル内の別のバンドで活躍していた伊地知(いぢち きよし/1977年9月25日-/Ds)が加入した。なお、後藤、喜多、山田の3人はアジカンを組む3か月前頃に楽器演奏を始め、かつ初めて組んだバンドがアジカンである。
アジカン・後藤正文が設立した“APPLE VINEGAR -Music Award ..
2011』」を横浜アリーナにて開催。
■7月30日 韓国 仁川「INCHEON PENTAPORT ROCK FESTIVAL2011」出演。
■7月31日 後藤正文が編集長を務める新聞「THE FUTURE TIMES」を発行。
■10月12日 渋谷LOOP annex 伊地知潔 PHONO TONES初ライブ。
コスモスタジオ(喜多建介&山田貴洋)
■10月29日 代々木第一体育館「東日本支援ライブ」出演。
ASIAN KUNG-FU GENERATION アジカン 後藤正文 ピック
後藤:そうそう。Foo Fightersのスタジオに行く前ぐらいからエンジニアとそういう話をよくしていたんです。ギターもピーキーだし、ボーカルも声の高い人が多い。なんで全部上に行くんだろう、みたいなイメージがあったから。低音をもっと出したいと思ってたんだけれど、充分出してるつもりでもやっぱり物足りない。そういういろんな疑問が、スタジオの環境を整えたら一気に見えてきたんです。
アジカン後藤による「APPLE VINEGAR賞」ノミネートに長谷川白紙
学内の軽音楽部の新入生歓迎会で出会った喜多健介(きた けんすけ/1977年1月24日-/ G)から誘われ、翌日に確認作業を経て「ASIAN KUNG-FU GENERATION」(アジアン・カンフー・ジェネレーション/略称:アジカン/英略:AKG)を結成。バンド名は、後藤が好きだった「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」が英単語を3つ使用している事から「3つ単語を使おう」と思い立ち、考えた末に決定した。
アジカンはOasisの影響を色濃く受けているので、まあ、繋がりがあります ..
後藤:インディーズ時代の自分たちもそうだったけれど、狭い練習スタジオに入ってバンドで「せーの」で音を鳴らしたら、ボーカルって聴こえないんです。叫ばないと曲にならない。だから初期のアジカンがエモいのは当たり前で、それはもう爆音の中でセッションしながら曲を作ってるから、叫ばないと自分が何を歌ってるかわからないからなんです。
後藤さんの日記(移転でリンク切れしてました。ちょっと探してきますが、有料会員しか読めないやつ……?)にあるように、アジカン ..
後藤といえば、自書『何度でもオールライトと歌え』を発表してもいるように、「オールライト」というフレーズが代名詞になっているが、この言葉の背景として、島田市で過ごした少年時代はとても大きいのかもしれない。そして、「オールライト」=「なんとかなるら」の感覚は、大井川をはじめとする豊かな自然環境が育んだものなのではないか。後藤自身のフランクな語り口を聞きながら、そんなことを考えさせられる取材となった。
後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)のルーツをたどる
紙やメディアに記すことの意味については、ずっと考えているんです。音楽も同じで、例えばOTOTOYで音源を買えば、CDよりいい音質で音楽を楽しめるじゃないですか。じゃあCDで出す理由は何? メディアを実体化することの意味は何だ? という問いが僕の中にずっとあって、その答えは、インターネットより肉体性をもって実生活に飛び出すことなのではないかと。ネットでは検索エンジンにひっかからないと情報を集められなかったり、それなのに目の前の情報に飛び付かないと追いつけないほどのスピード感があったり、広がりがないというか… バグが少ない感じがするんですよね。実体としてある物の強さって、そこにある、否応なくある、というところにある。例えば誰かが喫茶店で「FUTURE TIMES」を読んで、広げたまま店を出ちゃう。次にその席に座ったアジカンのことを全然知りもしないおじさんが、たまたまエネルギーの記事を目にして、「これ、使えるな」と思って手にとる。そういうことが起こり得るのが面白い。実際、南相馬で林業をやっている人がペレットストーブ(木質ペレットを燃料とするストーブ)の記事を読んで「これは私たちでも出来るんじゃないか」と検討を始めたそうで、これってネットの中だけだと起きないことですよね。完全に音楽の現場を跳び越しちゃっている。音楽をやっている人の記事には、やっぱり音楽好きしか集まらないんで。
他の3人と違いASIAN KUNG-FU GENERATIONの初期 ..
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文が高校時代までを過ごした静岡県の島田市。市の中心には川幅1キロにも及ぶ大井川が流れ、かつては宿場町としても栄えた歴史ある地域だ。また、肥沃な牧之原台地には茶畑が広がり、お茶の生産地としても全国的に有名。今回は後藤に、故郷・島田の思い出や街の魅力について語ってもらった。
劔樹人×後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)対談
陰鬱なアジカンさん(爆)にあって、唯一の「陽」を感じる人。
人懐っこい笑顔なんだけど、いつも何かを食っているイメージ(笑)。
たまに写真を見ると、恐ろしいほどパンパンに太っていたこともあったような・・・。
あまり深く考えずにバンドメンバーになってしまうため、
アジカンのドラムはチョクチョク変わるという身勝手っぷり(笑)。
それでも憎まれない所が潔さんの性格のなせる業。
曲中、突然レゲエのリズムを取り入れたり、
ディスコっぽくしてみたり、何でもアリなリズムも性格のさせる業か。
自称鎌倉BOY。
・・・・しかし、鎌倉BOYってどんな男子なんだ?(笑)。
鎌倉を散策していて気がつく事は妙に3文字の苗字が多い事くらい・・・。
3文字の苗字って憧れるな~。
その雰囲気からか、管理人は勝手に中高一貫卒業とみている。
受験なんて知りません、的空気を感じるんだけど。
文系寄りのアジカンさんにあって、唯一の理系。
・・・・でもラジオの漢字の読み間違いを聞いていると、
理系だから、というよりもバ・・・・(以下略)。
「後記」を”ゴキ”と読むそのセンスに万歳